Profile
1942年生まれ。短大卒業後、広告代理店勤務。結婚退職後は2人の娘を育てながら、さまざまな企業の営業としてトップセールスを記録。40歳で離婚後、42歳で長女と共に自宅だったワンルームマンションの一室でPR会社「サニーサイドアップ」を創業。その後、長女に託した同社は2008年に株式上場を果たす。2013年に一般社団法人おせっかい協会を設立。“愛のあるおせっかい”を説き、精力的に活動中。
『笑う人には福来たる
「幸せ」が集まってくる5つの習慣』
波乱万丈の少女時代から、子育てをしながらトップセールスを記録した営業時代、そして起業へ。常に前向きに歩んだ自身の生き方を「笑顔」「おせっかい」「分かち合う」「即行動」「脱不幸」5つのキーワードでつづった、明日へのエールに満ちた一冊。
離婚を機に42歳でPR会社・サニーサイドアップを立ち上げ、70歳で一般社団法人「おせっかい協会」を設立。
“愛のあるおせっかい”の必要性を説き、清掃活動などの“おせっかい活動”をしながら、全国各地で精力的に講演活動を展開しています。
極貧のなかで過ごした少女時代から起業まで、どんな苦境でも希望を失わず前進し続けた同氏の生きる力、その原点とは?
■ビジネスは人を通して初めて存在する
会社を設立したとき私は42歳。離婚して、まだ学生だった二人の娘を抱え、「どうやって生きていこう」と必死に考えました。悩んだ末に、PR会社で働いていた経験を生かして、立ち上げたのがサニーサイドアップ。最初は、本当に苦しかった。飛び込み営業で訪問した先では、実績がないからとほとんど相手にしてもらえませんでした。
そうした状況から、徐々に仕事をいただき、実績を積み重ねてこられたのは、それまでの営業経験のなかで、ビジネスの根本を学んできたからだと思います。それは「人を動かすのは熱意だ」ということ。大切なのはとにかく行動する、言葉で思いを伝えることです。
PR会社に勤務していたときのこと。大阪のテレビ局10社のプロデューサーにアポイントを取ったのですが、1社だけ断られてしまったのです。私はその局を訪ねて、「『東京からいらっしゃっても無理だ』と言われたプロデューサーのお顔を拝見しに、東京から参りました」とお願いしました。すると、受付の方も出てきたご本人も笑い出して、話を聞いてくださったのです。その帰路、新幹線のなかでお礼状を書いて速達で投函。結局、10社のなかで最初に仕事が決まったのはそのテレビ局でした。その人との会話や仕事のアイデアなどを手紙に書くのはとても楽しいし、受け取る相手もやはりうれしいものなのです。
またあるときは、どうしても会っていただけないので「千年でも万年でも待ちます。お願いします!」と頼み込んだところ、「私の方が千年も待てないよ」とついに会ってくださいました。
ビジネスは“人”があってこそ成り立つもの、人を通して初めて存在するものなのです。
■天知る地知る我知る
私は、これまで出会った人たちにたくさんのことを学ばせてもらいました。でもやはり、私の原点は母の教え。父は私が3歳のときに戦死しました。当時、母はまだ26歳。三人の娘を連れて上京し、事業を始め、一度は成功します。しかし、ほどなく経営は悪化し、一家は毎日の食べ物に困るほど貧窮しました。
そんな生活のなかでも、母は私たちへのしつけや教育にはとても厳しい人でした。特に、母が私たち姉妹に繰り返し言い聞かせてきた言葉が「天知る地知る我知る」。どんな悪事も不正も、天が見ている、地が見ている、何より自分自身が知っているという意味です。
14歳の私は、やむなく知人宅に預けられたのですが、そこで壮絶ないじめに遭いました。つらくて悲しくて、それでも私を支えてくれたのは「天知る地知る我知る」という母の教えでした。どれだけ貧しくても、みじめでも、人間としての尊厳を忘れてはいけないと教えくれたのです。
もう一つ、子ども時代に学んだのは、貧乏とか裕福とか、学歴の有無で「人を差別してはいけない」ということ。母の事業が成功していた頃はもてはやしていた人たちが、手のひらを返したように冷たくなるのを見てきたからです。
そしてもう一つ、「自分がされて嫌だったことは、人には決してしない」ということでした。私をいじめていたおばあさんが、のちに亡くなる直前に「当時はすまないことをしましたね」と謝ったのです。つらく当たっていた本人も、憎しみや恨みはあの世にまでは持っていけない。言わずにはいられない。「人間はみんな同じなんだ」と思いました。
■自力で社会を生き抜く“人間力”を育てる教育を
私は14歳のころ、大空を飛ぶ鳥を見て決意したんです。鳥たちがエサを探し、生きるために自力で飛ぶように、「私も自分の力で、いつか大空に羽ばたこう」と。ですからやはり、今の若い人はもっと強くならないといけないと感じています。人とうまく交われないようなひ弱さでは生き抜けません。子どもだけでなく、親にも道徳的な教育が必要です。親が子どもの前で学校の先生の悪口を言うようでは、教育現場は成り立ちませんよね。
勉強だけじゃなく、生きていくために必要な道徳も教える。そういう塾があってもいいのではないでしょうか。一言、一行でもいいから伝える。それを子どもたちが「今日は塾でこんなことを習ったよ」と話すことで、親も一緒に教育できると思うのです。
ツバメは、たとえ体が親と同じくらい大きくなっても、南へ渡る強さがなければ死んでしまう。人間も同じです。私は、子どもは社会からの預かりものだと考えています。20歳で社会に返したときに、力強く生きられるだけの“人間力”を育てなければならないのです。
■ 優しい“おせっかい”で世界を笑顔に
私がこれまで多くの人に学ばせてもらったことを、今度は一人でも多くの人に伝えたい。そして笑顔になってもらいたい。そういう思いで立ち上げたのが「おせっかい協会」です。
そのきっかけを与えてくれたのが、サニーサイドアップでマネジメントをしていたプロウィンドサーファー・飯島夏樹さんでした。「結局自分が死んでから残るものって、“人に与えたもの”それだけだ」。末期がんに冒され、38歳という若さで死を目前にした彼が遺した言葉です。死の間際、彼は「僕が死んでも悲しまないで、笑っていてほしい」とお笑いのテープを送ってくれました。多くの人がお金を得ることに躍起になっているけれど、それを追い求めるだけの人生に充足感なんてない。歳を重ねるほど、強くそう思います。
私はいつでも、協会の皆さんのために自宅を開放しています。一緒に掃除をしたり、食事をしたり。年齢も生まれも地位もここでは関係ありません。世界が優しい“おせっかい”であふれ、みんなに笑顔になってほしい。何の見返りも求めません。
日々食うや食わずだった少女時代。当時はみんな貧しくて、一家心中も珍しくありませんでした。母も本気で心中を考えていたと思います。私たちを救ってくれたのは、近所の方が玄関にそっと挟んでくださった一枚の手紙。そこには「あなたには、三つの太陽があるじゃありませんか。今は雲の中に隠れていても必ず光輝く時があるでしょう。どうかそれまで死ぬことを考えないで生きてください」と書かれていました。“太陽”とは姉と私、妹のこと。たった一枚のその手紙が生きる希望となったのです。だから今も私にとって太陽は特別。太陽のように誰かを照らしたい。その人が輝けば、私も幸せになれるから。
殺伐とした時代だからこそ、もっと支え合い助け合わなければなりません。協会の考えに賛同してくれる仲間を増やすことがこれからの夢ですね。