関塾ひらく「インタビュー」 各界で活躍する著名人に教育や経営をテーマとしたお話を伺いました。
アサヒビール株式会社名誉顧問 中條高コ氏
日本人よ、その美質を今こそ見直すべき
 
Profile
1927年長野県千曲市生まれ。陸軍士官学校60期生。旧制松本高校を経て学習院大学卒業後、アサヒビールに入社。1982年、常務取締役営業本部長として「アサヒスーパードライ」作戦による会社再生計画に着手し、大成功を収める。1988年代表取締役副社長。アサヒビール飲料(現アサヒ飲料)会長を経て、1998年アサヒビール名誉顧問。
著書は「立志の経営」「おじいちゃん戦争のことを教えて」「日本人の気概」(いずれも致知出版)など多数。


「滅びゆく平家のよう」と揶揄されるほど凋落していた組織で、“生ビール路線”を打ち出し見事に再生を遂げたアサヒビール。強豪キリンビールが勢力を伸ばす中、いかにして小は大に勝利することができたのでしょうか。また、今を生きる世代が忘れてはならない日本人の美質とは。アサヒビール再生の道を開いた知将・中條高コ氏にうかがいました。

敗戦で経験した挫折が逆境を乗り切る力に


『堪え難きを堪え、忍び難きを忍び――』。玉音放送が流れた1945年8月15日、日本は太平洋戦争敗北を喫しました。職業軍人を目指し、陸軍士官学校60期生として教育を受けてきた18歳の私はこの時、今まで受けてきた教育、信じてきた価値観がすべて崩れるという、痛切な挫折を味わうこととなりました。
軍人は皆「国民の命を守り、若い人の明日を担保するため戦に出ている」わけですから、負けるということは大変なことです。その日、2〜3年年上の多くの先輩方は、「国民に申し訳ない」「自分たちの任務を果たせなかった責任だ」「一死をもって国民にわびる」と言って自決されました。妻の人生を案じ、愛するがゆえに新妻と離婚してから自決された先輩もいます。「お前たちは生きて、日本の再建に尽くせ」――。後輩の私はそう言い残されましたが、もはや死んだも同然の気持ちでした。
一度死んだつもりでそれからを生きているので、覚悟を決めた生き方をしているとも言えます。さて、現代の経営者にそこまでの覚悟があるでしょうか。偶然とはいえ、これほどまでの挫折、言い換えれば「恩寵的試練」を若いうちに経験できたからこそ、その後の逆境を乗り越えられたのだと思うと、自分の境遇に感謝せずにはいられません。


凋落の途をたどるアサヒ社長の無念に涙止まらず

戦後、マッカーサー率いるGHQは財閥解体のため過度経済力集中排除法を制定し、日本企業325社を分割しました。ビールは平和産業ですが、アサヒビールの前身である大日本麦酒は市場シェアの75%を占めていたことから分割対象に指定され、1949年に西のアサヒビール、東のサッポロビールへ二分されてしまいました。
1952年、27歳でアサヒビールに入社した時はすでに、かつての勢いは陰りを見せていました。経営上は何ら問題ないのに敗戦のせいで分割され、徐々に勢力を落とす会社の姿に、社員としては耐え難いものがありました。戦前の巨大企業は分割により36%、その後1980年代には9%台までシェアを落とすことになり、その凋落ぶりは“滅び行く平家”と揶揄されていたほどでした。
ところで、なぜ私がアサヒビールに入社したのかと言うと、当時の山本為三郎社長に惚れ込んでいたからです。37歳だった1962年のある日、本社で山本社長の訓示を聞き、思わず涙したことがありました。当時、シェア低下に歯止めがかからず、手を尽くせども巻き返せない日々が続いていました。そんな現状を前にしながら、社員の前ではさわやかな語り口で話す山本社長の心にある寂しさ、悔しさや切なさを察すると、涙せずにはいられなかったのです。
その直後、山本社長から呼び出され、涙の理由を問われました。自分の気持ちを率直に伝えたところ「それならば、次の支店長会議でアサヒビール再生のための抜本策を出しなさい」と命じられたのです。尊敬する山本社長にそんな風に言われた私は、「こんな若造にも期待をかけてくれた」と思い感動し、喜びに浸ったものです。


“気づき”こそ商人の宝 相手の目線を大切に

アサヒビールの再生を図りたい、山本社長の期待に応えたい――。その一心から、他社の技術者も含めて17人に「教えを請いたい」と連絡を取り、大きく2点について聞いて回りました。
ひとつは「ビールはどういう飲み方が正しいのか」ということ。すると全員「生で飲むのが正しい」と言います。当時は熱処理したラガーが主流でしたから、次に「ではなぜ生ではなくラガーを供給するのか」と尋ねると、その返事は「生だと腐ったり、傷んだりして取り扱いが難しい」というものでした。つまり、生で飲む方がおいしいと分かっているのに、生産者の都合で消費者にはラガーが供給されている。それが実態だったのです。
ラガービールで対抗しても、60%超の市場シェアを占めるキリンの力があまりに強く、勝てないことは明白でした。この調査をもとに、生ビールによるアサヒビール再生戦略をまとめた提案書は1963年、秋の全国支店長会議で大阪支店の案として提出されました。アサヒビール再生への思い、そして山本社長の期待に応えたい思いをまとめた、まさに私にとって涙の建白書だったのです。
こうした経緯を経て生まれた生ビール「アサヒスタイニー」(1964年発売)は消費者のニーズをとらえ、見事に大ヒットを収めました。このときの成功がのちの「アサヒ生ビール」(1986年発売)、「スーパードライ」(1987年発売)へと続き、1985年からの5年間で市場シェアを10%から25%へ急拡大させていったのです。
商人にとって、一番大切なのは気づきです。私の場合、37歳のときのこの気づきがあったからこそ、生ビール戦略でアサヒの再生に貢献することができました。お客様の視点に立つ発想はマーケットインなどと言われますが、私なりに訳せば「相手を立てれば蔵が建つ」ということ。生産者の目線ではなく相手の立場、お客さんの立場に立ってモノを考えることができなければ、成功を収めることはできません。
また、「一度死んだつもり」の開き直り精神で臨んだことも奏功し、当時「絶対に勝てない」とされていた強豪に勝つことができたのです。この事実を果たしてどうとらえるか、今の経営者に問いかけたいですね。


教育、歴史、文化が育んだ美質を今こそ再考したい

日本には、リーダー教育を徹底してきた歴史があります。江戸時代、武士の家では5、6歳から藩校に通い、人としてあるべき姿を説いた「什の教え」や論語を学びながらリーダーの素養を身に付けました。厳格な身分制度の中、たとえ貧乏でもリーダーとして必要な人間力を養うための教育を行いましたし、武家の子どもたちにもリーダーになるしたたかな自覚がありました。
明治時代、欧米を視察した岩倉具視は富国強兵、殖産興業を実現すべく帝国大学や旧制高校を設置し、エリート教育体制を確立しました。資源もなく、出遅れていたアジアの小国にすぎない日本が、なぜ日露戦争に勝利できたのか。なぜ五大国と肩を並べられたのか。その答えのひとつに、国策として整備されたこれらのリーダー教育があります。
また、祖先や近所とのつながり、人との絆を大切にする日本独自の文化、お天道様にも恥じないよう気遣う文化は、世界に誇れる日本の美質です。しかし、GHQはこの美質に脅威を感じ、ことごとく解体しました。そのせいで多くの日本人は今、民族としての美質を忘れてしまっているようです。
「理想を失った民族は滅亡する」「すべての価値観をモノでとらえ、心の価値を失った民族は滅亡する」「自国の歴史を忘れた民族は滅亡する」という人類滅亡の三原則がありますが、まさに今の日本を言い表すようで心配でなりません。若い人たちはもう一度、日本の美質や歴史を見直す必要があるのではないでしょうか。
最後に、リーダーこそ大きな夢を描けと言いたいですね。昨今は豊かさと反比例するように若者の夢が小さくなっていますが、「夢」を明示することは、リーダーが果たさなければならない最も重要な課題。日本人の美質や人間力の回復に、教育が果たす役割も大きいはずです。

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