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どう生きるべきか、何をすべきか。子どもたちを導く人生の教育を |
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Profile
1930年東京生まれ。東京大学法学部卒業後、国家地方警察本部(現警察庁)に入庁。目黒警察署勤務をふりだしに、警視庁外事・警備・人事課長などを歴任。東大安田講堂事件、連合赤軍浅間山荘事件などでは警備幕僚長として危機管理に携わる。その後、三重県警察本部長、防衛庁官房長、防衛施設庁長官などを経て、1986 年より初代内閣安全保障室長を務める。昭和天皇大喪の礼警備を最後に退官。以後は文筆、講演、テレビ出演と幅広く活躍。著書に『東大落城』、『完本 危機管理のノウハウ』『連合赤軍「あさま山荘」事件』など。「日の丸を掲げた直接国際人道支援」をモットーとする国際ボランティア団体「日本国際救援行動委員会(JIRAC)」理事長としての顔も持ち、1991 年から10 年間にのべ850 人の青年隊員をカンボジア、ロシアに引率。国際貢献・青少年育成に取り組んできた。
連合赤軍浅間山荘事件で現場指揮官として手腕を振るうなど、数々の場面で日本の治安維持に貢献してきた佐々淳行さん。
その目には現在の教育はどのように映っているのでしょうか。戦前戦後のご体験をもとに教育のあり方を語っていただきました。
心・技・体そろった、青年教師の指導
自分の受けた教育として鮮明に覚えているのは、旧制小学校六男二組(男子組6年生2組)の時に担任だった伊藤信雄先生です。
24歳と若くて美男子。小学校だけでなく中学校や高等女学校の教師免許を取得し、器械体操の名手でもあるという心技体がそろった方で、同級生の誰もが憧れていました。
先生は、勉強でも運動でも全員できるまでやるという方針をとっていました。授業でできなければ、放課後に特訓します。私は泳ぐのが苦手だったので、よく水泳の特訓を受けました。とても厳しい指導でした。でも、1mでも泳げればほめてくれます。そうして全員が上達していきました。
先生について何よりもすごいと思うのは、とうとう一度も「鬼畜米英」とは言わなかったことです。アンフェアなことが嫌いで、交戦中であっても相手を蔑むような言葉は使いたくなかったのでしょう。ある時、先生が地球儀で日本の対戦国であるアメリカやイギリスをひとつずつ差し示して説明してくださったことがありました。誰もがその国土の大きさに改めて気づいたはずです。それから先生は私たちに「日本が勝つと思う者、手を挙げなさい」と聞きました。誰もがそうだと思っていましたが、ある生徒が手を挙げず、教室は騒然となりました。当時は軍国少年ばかりで、「負ける」なんて言ったら袋だたきです。でも、伊藤先生は責めず、「勝ち負けは分からない。いずれにしても私はみんなが良い小国民になれるように教えていくつもりだ」と話しました。批判めいたことを言う人ではありませんでしたが、戦争に対してもしっかりとした主張の持ち主だったのです。
戦後も信じ抜いた先生との約束
先生の存在を私にとってさらに特別なものにしたのは、先生の死と卒業式の日に交わした約束です。残念ながら、伊藤先生は結核性脳膜炎を患い27歳で亡くなりました。その知らせにショックを受けながら頭に浮かんだのは、卒業式の日、先生が私たちに言った約束です。「これからはみんなバラバラになる。たぶん私も、まもなく応召して戦地に行くだろう。思えば、昨年の伊勢神宮参拝は楽しかった。次の伊勢神宮の遷宮は昭和25年だ。この年にもし戦争が終わっていたら、生き残った者みんなでまたお伊勢参りをしようじゃないか。日にちは、ぼくの誕生日の5月5日。時刻は正午。場所は上野公園の西郷隆盛の銅像の下。そこに必ず集まるんだ。男の約束だぞ」。
その後、大学生になった私はこの約束が気になり、その当日、「自分一人だったらどうしよう」という不安を感じつつも、西郷隆盛像の下に行きました。そこには、懐かしい6人の顔がありました。戦争が終わって社会の価値観が180度変わってしまう中でも、私と同じく約束を信じ続けていたのです。その後、同級生とは長く親交が続き、昨年も66年目の同窓会を開きました。
先生が導いてくれた青年期の道のり
伊藤先生の他にも、私は多くの先生に導かれました。17歳で父を亡くし困窮した時には、当時通っていた旧制成蹊高等学校の霜山徳爾先生の助けで育英会の特別奨学金を受けることができました。
東大でヨーロッパ政治史を教わった岡義武先生には、「この世にヒロイズムがあるとすれば、それは現実を直視し、しかもこれを愛することである」というロマン・ロランの言葉を教わりました。当時の日本は火炎瓶投てき事件が日常的に起こるような荒れた時代。日本はダメだからアメリカにでも行こうなどと思ったこともありましたが、この言葉はそんな私にここで頑張ろうと思わせてくれました。
同じく東大の高野雄一先生には、国家政府の最低限の役割は、治安・防衛・外交などによって国民が安心して眠れるようにすることだという夜警国家の考え方を学びました。
この考え方に感動して、仕事にするならこれだと思いました。その後、意図したわけではありませんが、実際に私は治安、外交(1965年に在香港日本国総領事館領事)、防衛にたずさわる仕事をしています。
人生の理想像を教えてあげてほしい
塾を経営するみなさんにお願いしたいのは、子どもたちが生きていく上での理想像を教えてあげてほしいということです。現在は誰もが憧れるようなヒーローがいないこともあって、どんな大人を目指していいのか、何が正しいのか分からない子どもがたくさんいます。
私たちの場合は伊藤先生が理想像でした。何かの役職や職業に就きたい、という話ではありません。伊藤先生は一介の教師に過ぎませんでしたが、その生き方、教育への姿勢によってたくさんの人を導きました。私は伊藤先生のような生き方がしたいと思いました。大切なのは、何になるかでなく、何をするか、なのです。
どんなに高い役職についてもどんなにお金を貯めても、人生の価値とは関係ありません。それよりも大切なのは、死を迎える時にどれだけの友達が泣いてくれるか。それは自分が何をしてきたかにかかっています。初等教育では、まずそういう生き方を教えていかなければいけません。今の学校や家庭でそれができないのであれば、ぜひ塾でやってほしい。それが私の願いです。。
■ 佐々氏の生き抜くためのアドバイス |
警察官として多くの修羅場をくぐり抜けてきた佐々さんに、人生をたくましく生き抜くためにアドバイスをいくつかしていただきました。
@「始まったことは必ず終わる」
どんなに辛いことでも、それが一生続くわけではない。そこで批判や泣き言など、後になって後悔するようなことは絶対に言わない。歯を食いしばって我慢をする。
A「人の噂も七十五日」
周りから批判を受けると、周りの目が気になってしかたがなくなる。しかし、自分が思っているほど自分への関心が続くわけではない。自意識過剰にならず、じっと我慢する。
B「成功した時は上を見ろ、失敗した時は下を見ろ」
成功で有頂天になっていては、次の失敗で挫折してしまう。成功した時には、さらに上を見て検挙に努力する。逆に失敗した時には、自分は恵まれた環境にいることに気づき、くよくよしない。 |
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