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困難に挑戦する不屈の精神 |
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Profile
昭和29年、大阪生まれ。
昭和54年4月(株)TKC 入社。昭和57年4月ロジック・システムズ・インターナショナル(株)(現ロジック(株)) 入社。平成元年11月フューチャーシステムコンサルティング(株) 設立。同社社長、社長兼会長を経て、平成19年、フューチャーアーキテクト株式会社に社名変更。同社会長、CEO就任。
世界の動きを察知し、社会におけるITの変革期とともに自らの進化を追求してきたフューチャーアーキテクト株式会社代表取締役会長CEO 金丸恭文氏。自らで行動を起こし困難に立ち向かう、人材の育成についてお伺いしました。 |
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優秀な人が難しい仕事にチャレンジし、日本社会をリードしていく。それが国が栄える本来の姿という金丸氏。事業はもちろん学業の場合でも、難しいことに取り組むことは、人を強く鍛えあげていきます。そして失敗や成功を重ねていくことで本当の力を身につける。停滞することなく前へ進んでいくためには、自らの中で革新を起こすことが大切であると教えられました。
世界トップとの差に焦りを感じて…
私は工学部出身なんですが、学生時代は、単なる技術職で終わるのはイヤだなと考えていました。なぜかというと、生涯賃金で見ても、文系より理系の方が1億円も少ない。技術職の世界では「お金のことを気にする奴は技術屋じゃない」といった風潮もありました。そのため、技術職だけに止まらない仕事がしたいと思っていました。
最初に就職した会社では、与えられた仕事をこなすことに集中し、次第に財務会計や経理分析などの会計を学びました。
ちょうどその頃、世界はパソコン時代を迎えていました。アメリカでは、マイクロソフト社のビルゲイツ氏が世界のトップを走っていたんです。彼の年齢は私よりも一つ下で、19歳で友人とともに起業していた。これを知った私は、強い衝撃を受けました。
いてもたってもいられなくなり、日本を代表するパソコンを開発して、世界と競争したいと強く願うようになりました。それで転職することに決めたんです。
転職先では、念願かなって当時最高性能のパソコンの開発を指揮することができ、仕事には大変満足していました。夢中で仕事に励んでいるうちにあっと言う間に数年が経ち30歳を超えていました。
起業を待たされたことが幸運に
30歳を過ぎた頃、サラリーマンとしてこのまま終わるんじゃないか、という漠然とした危機感が沸いてきました。ですが、自分が会社を辞めることのインパクトは相当大きいとわかっていたので、タイミングを見計らっていました。
そして33歳の3月31日。期末で仕事を終えたとき、意を決して社長に「会社を卒業して起業したい」と伝えると、私が想像していた以上にショックを受けられたんです。その後、何度か話し合っていくうちに辞めるならこんなことをやって欲しいと、
様々なリクエストが来ました。それを全部やっていると、起業するタイミングがまた伸びてしまう。どうしようかと悩みました。それで、私が担当し役員も努めたNTTとトヨタ自動車のジョイントベンチャーのプロジェクトでお世話になった牛尾会長(ウシオ電機代表取締役会長)に相談しました。すると「君は実力があるからいつでも独立できる。会社の要望をこなしていくのも一つの生き方だよ」とアドバイスをいただきました。
それから2年。会社から与えられた課題をクリアし、会社(フューチャーシステムコンサルティング株式会社)を興しました。ところが、他の社員が失敗したプロジェクトの火消しを手伝ってくれと頼まれて、まだ会社を辞められる状況ではなかったんです。この依頼を聞く道義的な責任はないと思いましたし、「私の大事な2年間を返してくれるの?」という気分でしたね。
そうはいっても、仲間が苦しんでいたので放っておくこともできません。自分も直接関わったことのあるクライアントさんの仕事だったので、潔く火消し役を買って出ました。そうした経緯があったので、会社をつくったものの、私が正式に参画するのは翌年の夏に延びました。ですから私は、社員ナンバー9番なんですよ。
不本意ながらも2年間待ったことは、神様が与えてくださった運だと思います。その時代はバブルの最後の2年間。IT業界は人さえ集められれば注文は来た時代だったので、お金のために自分が望まなかった古い仕事をやっていたかもしれません。さらに、当時の銀行は資産として不動産に重きを置いていました。私より早く創業した人達は、不動産を買ってバブル崩壊していました。私は、マイナスになるのを避けられた。運がよかったと思います。
個人を鍛えてこそ組織の力となる
社名の「アーキテクト」という言葉は、建築家とか全体を構想・設計するという意味で用いられます。弊社は建築業界の設計士に例えることができますが、建物と違うのは、地球の裏側にあるコンピュータとネットワークを通じて情報のやりとりをしたり、データの更新をしたりすることです。そんな目に見えない部分の全体像を把握して、どんな通信網を使えばいいのか、マイクロソフト製品を使えばいいのか、アップル製品にするべきかというあらゆる要素を組み合わせて、しかも長い間使っていただく。そういう意味で未来のデザイナー集団なんです。
その考えが受け入れられて、仕事にもそんなに困らない状況が続きました。それどころか毎月仕事が増えていきました。
基本的には、人がベースとなったビジネスです。だから勝つためには優秀な人材を集めなくてはいけない。ただ優秀な人達を集めるだけなら官僚と同じです。本来、優秀な人は一番難しいことをやらなくてはいけません。日本は逆の考えで、社会を引っ張っている優秀な人は何も創造しないで、お金などの管理をすることが仕事になっています。せっかくの才能を持った若い人達が、あっという間に頭の中もメタボリック(症候群)になる訳ですよ。日本の大組織にはメタボリックな人がたくさんいるから、組織の牽引する力も衰え、前に進めなくなってしまっています。これでは変革は起きませんし、国際競争にも勝てません。
だから私たちは、優秀な人を集めて、理論編の教育と、困難にぶつかっていく実践の場を用意し、鍛え続けています。
加えて、社員から自発的に何かが生まれることも、非常に重要視しています。今年の新入社員は、来年の新人向けに冊子を作りました。タイトな研修期間の中で、アフターファイブ以降にやっていました。
これは私が依頼した訳でもないですし、仕事として命令したわけでもありません。また会社の利益に直結することでもありません。ですが、彼らの取り組みは、上司も介在しておらず、紛れもなく彼らの作品です。自分で考え、行動したことは成功も失敗も自分のものです。
本当に必要な教育とは
現在の日本は、本当にモノだけでは競争ができない時代を迎えています。ですから、これからは、今まで以上に教育が最重要課題だといえます。教育が最重要課題だということは一般的にも言われていますが、医者なら野口英世、理系なら本田宗一郎など、具体的な人材像を示してあげたほうが子供達にも伝わりやすいでしょうね。そして、どうやったらそこに到達できるかを伝えてあげることが大切だと思います。
「失敗はよくない」と思わせるのはよくないと思います。日本は減点主義でしょう?難しい問題が解けても100点にしかならないのは、つまらないと思います。採点の方法も変えるべきでしょうね。
極端な例を挙げると、難しい漢字を出題して、きちんと書けたら10点、はねる向きが間違っていても雰囲気があっていたら5点、書けなかったら0点と点を加算していく方法をとったらいいんですよ。
大体、先生にも解けないような難しい問題が解けたところで、社会に出て役に立たないんですから。苦労して勉強した人たちほど、安定した生活を求めてリターンの少ない人生を送るものです。
現実には、大学を出るまでは予選で、社会に出てから本選が始まるんです。そこから先、誰と戦うのか分からない敗者復活戦に、立ち向かっていけるような人材を育てなければいけない。
私の子供時代は、点数をとらなきゃいけないという価値観を一切持っていませんでした。特に、小学校4年生から6年生の3年間は、本当にのびのびと過ごしましたね。日が暮れるまで野球をやって、家に帰ったら好きな推理小説や歴史小説を毎日2冊読む、という生活でした。宿題すらしなかったんですよ。その3年間は、ずっと同じ担任の先生だったんですが、あれこれ指図する先生ではなかったので、私が宿題をせずに小説を読んでいるというのも認めてくれました。
だからという訳ではありませんが、日本の教育で5教科もやらなくていいから1教科抜きん出た子供を育てたり、国の政策として優秀な教育者を集めたりしても、いいのではないかと思います。欧州では実際にそういう教育をやっているようですね。イギリスは、1教科とスポーツ。フランスの場合は、数学一点に絞って、出来る子供を選抜して、どんどん難しい方向へ進めるように教えているそうです。
どちらも極端な例ですが、今後の教育を語る上で、優秀な子供をどうやって教育するかを、しっかり考えたほうがいいですね。 関塾さんでも、将来、社会に出て色々なことに立ち向かっていける、優秀な子供達を育てていただきたいと思います。
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