関塾ひらく「インタビュー」 各界で活躍する著名人に教育や経営をテーマとしたお話を伺いました。
岡野工業(株)代表社員 岡野雅行氏
経験させて、面白さを教える  楽しむ中で、子どもの力は自然に伸びる。
 
Profile
1933年東京都生まれ。家業の金型工場を手伝いながら、独自にプレス加工、量産プラントなどの研究開発を始める。72年に会社を受け継ぎ、岡野工業株式会社を設立。「リチウムイオン電池ケース」を開発して世界の注目を集め、携帯電話やパソコン普及への功労者に。また、針先の直径が0.2ミリという、世界一細い「痛くない注射針」の量産化にも成功、05 年度グッドデザイン大賞を受賞した。『俺が、つくる!』(中経出版)『世界一の職人が教える仕事がおもしろくなる発想法』(青春出版社)ほか著書多数



社員5人の会社ながら、細さ0・2ミリの「痛くない注射針」など、他では作れない製品を数多く実現させてきた岡野工業。その技術を引っ張ってきた岡野氏に、経営や教育に対する独自の考えを語っていただきました。

手伝いの一方で独自の商売を開始


私の実家は金型屋で、親父は腕のいい職人でした。それを手伝い始めたのがこの道に入ったきっかけです。
親父の腕は心から尊敬していました。でも、一方で見習いたくないところもありました。絵に描いたような昔の職人で、商売っけが一切なかったことです。これではだめだなと感じ、手伝いながら自分独自で商売することを考え始めました。
金型屋は技術のいる仕事なんですが、商売としてはとても不利でした。プレス屋の下請けで、本当のお客様からは遠いところにいるからです。私たちが一生懸命作った金型でプレス屋はどんどん製品を作ってもうけていたのですが、それが私たちには見えません。自分の金型がどれだけ価値があるかわかりませんから、言い値で仕事するしかなかったのです。気づいたら、どこのプレス屋もうちの何倍も何十倍ももうけているということになっていました。その時どうもおかしいなと気づいたんです。それでプレスもやりたいって親父に言いました。
親父は猛反対でした。当時の業界では、プレス屋の仕事を金型屋が取るのは許されないことで、周りの反発も相当強いものでした。だから、私はほかの会社ができない仕事を選ぶようにしました。ひとつは安すぎてしない仕事、もうひとつは他の会社が技術的にできない仕事です。みんなができないことなら、やっても問題にはならないだろうと思ったのです。
安い仕事だって、うちならうまくやれるという自信がありました。要は効率よくやればいいんです。すぐに自動化の機械を作って、他の会社の何倍もの効率で作れるようにしました。こうすれば会社の利益が出るということが、自分でやってみてよくわかりましたね。


できるまで何年かかってもやり続ける

最初は安い仕事ばかりでしたが、次第に他の会社が技術的にできないことまでできるようになりました。よくどうすればうまくいくかなんて聞かれますが、そう簡単にできるはずはないんです。失敗ばかりでした。30代半ばまでは誰よりもたくさん失敗していたんじゃないでしょうか。時間も限られたものです。日中は親父の手伝いをして、夕方からプレスをして納品したり。終わって寝るのは毎日深夜2時、
3時で、睡眠は2、3時間。それでもこうすればいい、あれはどうかと考えるのが楽しくてしょうがありませんでした。
それに、中学を中退し、学のなかった自分にはこれしかないと思っていたんです。うちの専門は「深絞り」という技術なんですが、そこに関してはとにかくできないと言いたくありませんでした。失敗しても、失敗しても、何年かかってもあきらめませんでした。その経験があるから、ほかではできないことができる。どうなるかわからない商品を何年間もいじっているなんて、普通の企業ではできません。それができたから、うちは伸びたんだと思います。
痛くない注射針も、他ではできない仕事でした。依頼された医療機器メーカーは1年間いろいろなところで断られて、最後の頼みでうちに来ました。私が図面を20分位見てから「できますよ」と言ったらものすごく驚いていました。普通注射針はパイプから作るんですが、私が考えたのは、1枚の板を丸めて作る方法。理論物理学の偉い先生がこのやり方は不可能だって保証したんですから、できると言って驚かれるのも無理はありません。でも、私は学がない分、頭に規制がありません。 とりあえずやってみようと思いました。6割はこれまでの経験からどうすればいいか見えていました。問題はあと4割。これもとにかく何回も失敗して、一度作ることができました。次は安定して作れるかどうかです。これは難しくて3年半かかりましたが、それでもあきらめず、ついにはできました。誰もが無理だと言っていたものを実現できたのです。
今も他にできないものをいろいろ考えています。見ているのは大体5年、10年先です。たとえばプラズマディスプレイの心臓部となる部品やSARSの検査機など。検査機はもうできていて、通常1週間で分かる検査結果を2時間で出せるものです。SARSだけでなく、インフルエンザなどにも使えます。これらはどこへ行ったってできないもの。だから面白いし、大きな利益につながる可能性をもっています。


孫が身につけた生きる力

私は中学を中退した身なので、勉強なんかできなくてもいいと思っています。仕事だって親父に教わったかというと、少し違います。見て盗めとよく言われました。この世界はそうじゃないと伸びないんです。自分にとっては金型をつくるのが楽しかったし、これができなければ、生きていく価値はないとまで思っていました。自分には何もないというコンプレックスが絶対に成功させるというモチベーションに変わっていったのです。
私にとっての金型づくりのように 教育というのは最終的に、どうやって金を稼げるようになるのか、世の中を何で渡っていくかを学ばせることじゃないかと思います。要は将来何やるのかと。そこが大事じゃないでしょうか。 うちの孫の話をさせていただくと、幼稚園の時から私は海外に連れ回していました。私が海好きなものですから、あちこちでヨットに乗せて海の話ばっかりしていました。そうしたら海に興味をもって、海洋関係の大学に行き、今は遭難船を撤去するなどのサルベージの会社で働いています。
孫には小学校の夏休み、「手に職をつけたらいいぞ」と言って島根県で安来節を習わせたこともあります。孫はそれから毎年行くようになって、5年生のとき、NHKの大会で優勝するまでになりました。学生時代はみんなで長期間同じ船にいるので時には退屈するときもあるんですが、余興で安来節をやったら大好評だったそうです。おまけに孫はピアノもできるから、安来節をやって、その次にタキシードに着替えてピアノ演奏。これは意外性があるから受けること間違いなしです。人がやっていないことを一生懸命身につければ、世の中を渡り歩く力になる。孫の話はそのことをよく表していると思います。


チャレンジの中で子どもは育つ

何か教えようとしなくても、子どもは本人の気持ちがそっちに向きさえすれば、どんどん覚えていくものです。だから、周りの大人がしてあげることっていうのはまず経験させてあげることではないでしょうか。
以前NHKで見た番組で、引きこもりなどの問題を抱えた子どもたちをバスに乗せて、東南アジアからヨーロッパまで行くツアーの紹介がありましたが、これに参加した子どもたちはすぐに仲間意識が生まれてみるみるうちに明るくなっていきます。やっぱり子ども自身が何かにチャレンジできる機会が必要なんだと思います。何か作られたものでなく、子どもが勝手きままに遊べるようなものであれば最高です。そういう機会さえあれば、自分なりの興味が自然に出てくると思います。

生き方を教えてあげなきゃ

また、大人は少なくとも子どもより経験があってまともな判断ができます。だから、生き方を教えなければいけないと私は思います。私は親父とおふくろの生き方を見てきたし、遊びに行っていた夜の街でもお姉さんの話をよく聞いていました。そこから何が大事かを考えるのは子ども次第ですが、子どもに遠慮して何も教えないようなのはいけません。自信がなく、疲れているような大人ばっかりでは、子どもも世の中が好きになれないと思います。
関塾を経営されているみなさんは少なくとも自分の力でお金を稼げている人だと思います。だから、子どもたちに自分がどういうふうに考えてやってきたのかを話してあげてほしいんです。子どもたちはそこから世の中の面白さを感じ取ります。それこそ一番の教育。私はそう思います。

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